人の苦しみに答えを出した人

お釈迦様

2つの顔を持つ男

仏教の開祖としての顔と、生命を深く読み切った哲学者としての顔。

シッタルダ(お釈迦様)という人物を語るとき、私たちはどうしても前者の「宗教家」としての側面に目を奪われがちです。

しかし、彼の真の凄さは、奇跡を起こしたことでも、壮大な死後の世界を説いたことでもありません。

それは、私たちが日々直面する「生きる苦しみ」という極めて現実的な問題に対し、冷徹なまでの観察眼と、驚くべき論理的思考によって、一つの「答え」を導き出した点にあります。

いわば、彼は宗教家である前に、「生命哲学」というOS(基本ソフト)を設計した、希代のエンジニアだったのです。

本記事では、彼が遺した哲学の核心部分を、現代的な視点、そしてITエンジニアとしてのフィルターを通して読み解いていきます。

奇跡や神秘を排した先に現れる、一人の人間としてのシッタルダ。彼が命をかけて思考した、あまりに孤独で、あまりに自由な「生きるためのアルゴリズム」に、触れてみませんか。

なおこの章は、文献の紹介や歴史的事実というより、僕個人が勝手にお釈迦様って何を考えていたんだろうという目線で述べています。

仏として超人としてでなく人間を強調するあまり、ご不快に感じる方もおられるかもしれませんので、先に謝罪をしておきます。  

宗教家としてのお釈迦様

輪廻転生など、釈迦自身の考えか、時代背景なのかを、考察。

ここは正直よくわからないのですよ、お釈迦様が説く教えと輪廻転生 どうつながるのかって。

もちろん解脱することで輪廻の輪から逃れられるという理論構成は理解できるのですが、どうもここ後付のような気がして。

バラモンの教えがはびこるこの時代、輪廻転生を取り入れなければいられなかったのかなって。

苦しむ原因は八正道から離れ、三毒に浸るせいだと言っているのに。

これだけで説明できるのに、なんで輪廻のこと話したのかって。

輪廻を加えたことが、哲学者でなく宗教家と思われる原因なんだろうけど、それはお釈迦様の本意だったんだろうかと。

4つの苦しみを初めて知る

生まれたときにこの子はブッタになるとか、この手の話は枚挙に暇がありません。

でもそんなものはどうでも良くて、四門出遊で世の中の苦しみを知ったことが、ブッダを作った原因だろうと思います。

はじめから分かっていた(仏だからね)のではなく、苦しみというものを知ったこと。ここが大事なことではないかと。

四法印

個人的な最大事は「四法印」と思っているので、一般論の釈迦論ではなく、四法印を基礎として考えたい。

特に諸行無常と諸法無我 こんなの西洋では絶対に出てこない思想でしょうね。

いや貶めるつもりはまったくなく、後に産業革命を起こすためには、個人を価値の上位に添える考えが必要となります。

逆に東洋では産業革命は起こせなかったのかという話ですが、それに関しては誰か産業革命起こしてよ、僕は利用させてもらうよでいいのかと。

諸行無常 すべてのものは一瞬たりとも固定せず常に動き続ける ここを本当に理解できたら、ものに執着する産業革命は起きなかったのだろうか。

諸法無我 諸々の法則はそれ自体に意思はなく縁起で仮にまとまり、ただ機能があるだけ ここが分かれば、そもそも神なんて作らなかったのだろうか。

ブッダが生まれ、デカルトが生きて産業革命が生まれ、昔のブッダの教えが今の閉塞を解決する。

うんうまくできているなあ。

ブッダと呼ばれた人 ブッダと呼んだ人

シッタルダはブッダと呼ばれました。

自分でも私はブッダであると言いました。

どんな思いで言ったのか、

きっと僕わかっちゃったという意味なんじゃないかな。

仏様というスーパーマンになったとは思っていないような気がします。

また

彼のことをブッダと呼んだ人もいました。

その人達はどんな思いで呼んだのか。

感謝から呼んだのか、畏敬から呼んだのか、自分の利益のために呼んだのか。

感情までの資料はないのでただの妄想ですが。

生命哲学者としてのお釈迦様

不思議なことが起きたからすごいというスタンスではなく、どんな思いで生きたのか、わかる範囲で調べて行きたい。

天上天下唯我独尊と処女懐胎

そもそも生まれてすぐにそんな事できない。

出来そうもないことをできたということで、すごいすごいという騒ぎは人間シッタルダを見えにくくする良くない傾向と考えます。

生まれたばかりの子供は歩いたり喋ったりしません。

同じスタンスで、キリストの処女懐胎も大きな問題があります。処女は懐胎しません。

大乗非仏説

そもそも、釈迦を哲学者と捉えれば、大乗教の意味は殆どなくなります。

悟りを開いてからの人生は、初転法輪を多くの人に広めるための人生だったのではないか。

それであれば、法華経や、華厳経は違いすぎて、後世の人の贋作という方が遥かにスッキリします。

百歩譲って大乗経は、後世の人が残した初転法輪の解説書という捉え方のほうが、理解しやすいと考えます。

自灯明、法灯明

仏法僧の三宝との違い。

自灯明、法灯明 > 自分と法つまり、諸法無我で言うところの法 無我の法 世の中の理を道しるべとしなさい。

仏や僧など、言ってみれば自分以外を道しるべにしてはいけないということ。

なんだかすべての宗教にけんかを売っているよう。

彼は誰!?

結局お釈迦様は誰なんだろう、どんな役目を全うしたのだろう。

ただ仏というスーパーマンとして崇めるより、人間シッタルダとしてみること、ご不敬ではなくより近くに感じることも良いものだと思います。

さて、この「生命のアルゴリズム」を、私たちは今の閉塞した社会でどう走らせるべきか。

これからも具体的な「生き方の実装」について考えてみたいと思います。

コメント

タイトルとURLをコピーしました