からだは意外におしゃべり
いま、体の中で何が起こっているのか?
実は体はかなりお喋りです。
とはいえ何を言っているのか、なかなかわかりませんね。
寒いところにれば体は震えて、失った体温を温めようとします。
食べ過ぎれば、太ります。太りすぎれば、高血圧や高脂血のリスクが高まります。
花粉症の人は花粉が多いところに行けばくしゃみをしたり鼻水が止まりません。
さてこの体のおしゃべりをちゃんと聞いているのでしょうか。
嗜好品ではなく、必要なもの
また例えば今日は肉が食べたいなあとか、甘いモノを食べたい、酒や煙草を求めるのも体の声ですね。
自分の好きな物だけ食べれば病気は治る・防げる
という言葉を暴論だと考えていた頃もありました。
この言葉の肝となる部分は ”自分の好きなもの”というところです。
この部分を嗜好品という捉え方をすれば、体にいい訳はないのは想像できます。
しかし体が求めているものという意味に捉えれば、本来の食事の意味するものなのではないのでしょうか。
栄養学などもない時代、人類は(おそらくすべての生命は)お腹が空いたら食べるという生活を送ってきました。
ライオンも空腹でなければ近くを通ったインパラなどを襲うことはないといいます。
そうやってすべての生命は生を繋いできたのです。
われわれもああ今日は何か酸っぱい物が食べたいなとか、疲れたから肉をガッツリ食うぞとか、その時その時で食べたいものが変わります。
例えばこういうものが自分の好きなものという言葉の意味するものなのではないでしょうか。
しかし今日は甘いものが食べたいと、ケーキなどを食べたくなることがあります。
この感覚の違いをもう少し考えてみたいと思います。
大きな貢献をした薬というもの
例えば熱が出たとき、虫歯が痛んだ時など身近にある薬でずいぶんお世話になっています。
また産業としても巨大産業として雇用の面でも、税金の面でも国に大きく寄与していることでしょう。
太古から人類は野生に生えている草などを採ってきて利用をすることで、薬という概念は早くから芽生えていました。
何か体に変調があったときこれを摂取すると改善するということの積み重ねで、少しづつ知恵として蓄積されていきました。
おそらくより多くの失敗もあったことでしょう。そして本来関連がないのにたまたま同じタイミングで摂ったことで勘違いもあったでしょう。
鰯の頭も信心から
イワシの頭に祈ったら治ったぞ、これは尊いものに違いないみたいな。
ただ逆に考えてみるとイワシの頭に祈ることと治ることには因果関係はないように思えるのですが、はっきり無いとも証明されていない以上もしかしたら幸せの特効薬かもしれないのですが。
無いことの証明って難しいですよね。あることは一度成功すればいいけれど、100 回無くても 101 回目で成功するかもしれないなら、ないとは言い切れないですよね。
話がそれましたが、以前のような経験主義的な手法は非常に効率が悪いといえます。
慣れがあればある程度効率化できますが、それでも総当り的に試さないといけないわけですし、感や慣れに頼ると、なかなか大きなブレークスルーが生まれにくいということもあります。
人の持つ大きな能力に汎化の概念があります。個々の事象からその中にある共通性を見出す能力です。
風邪をひいたときにみかんを食べると早く良くなるという経験から、みかんの持つ成分が効果があるのではないかと考え、みかん以外にその成分を持つものを調べることでより一般化しました。
みかんが手に入らない場所もあるし、代替のもののほうが安く手に入ることもあるでしょう。
そして次第にみかんやらほかの食べ物ではなくその共通成分自体にビタミンという名前を付けました。名前を付けることで人は認識できるようになります。
効果は似ているけど違うものを集め分類してゆきました。
またある時は青カビが生えている周りはほかの細菌の増殖が抑えられていることからペニシリンが生まれてきました。
そうやって少しづつ薬効を自分たちのものにしてきた時代はもはや過ぎ去りました。
薬に対してのそこはかとない不安
巨大な製薬業界が君臨する現代において、薬に対する考え方は、薬自体を考えるだけでは済まなくなります。
毎日繰り返される膨大な数の CM は、私達を薬が必要だという考えに誘導してゆきます。
もうすでに薬のない生活は考えられません。少なくともそう思わされています。
この状態は知識を持っているということなのでしょうか、正しい教育を受けているというのでしょうか、それとも洗脳状態なのでしょうか。
必要なときに自分で考えて必要なものを必要なだけ使うという本来アタリマエのことがもうすでにできなくなっている。
よく考えたら恐ろしい時代です。
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