浜辺で遊ぶ子どもたち ー 違和感の入口

浜辺で遊ぶ子供のよう

素人が地球温暖化の「変数」を疑ってみる

ごく基本的な疑問ですが、そもそも何をもって「温暖化」としているのでしょうか。温暖化すると何がまずいのか、そしてその言葉は一体何を意味しているのか。

観測条件という前提

当たり前ですが、条件が変われば過去のデータはそのまま比較対象にはなりません。

江戸時代の江戸と現代の東京を比べても、アスファルトの面積も建物の高さも違います。
単一の理由(二酸化炭素)だけで語るには、変数があまりに多すぎるのです。

気象は毎年揺らぎます。暖冬も猛暑も、複雑なプログラムのバグのように予測不能な動きを見せます。

メディアが示す「緩やかな右上がりのグラフ」は、そのデータが「どこで、どんな条件で」測られたのかという詳細なデバッグ作業を飛ばして、結果だけが強調されているように見えてなりません。

百葉箱の隣にビルが立てば、それはもう巨大な暖房器具の隣で熱を測っているようなものですから。

「正義」という名の同調圧力への違和感

温暖化の話題で最も立ち止まってしまうのは、
「二酸化炭素が増える = 地球が温暖化する = それは絶対的な悪である」
という、あまりに直線的なロジックです。

僕は科学者ではありません。あくまで素人として、日常の中で感じる「手触りとしての違和感」を大切に、独りよがりにならないよう整理してみたいと思います。

切り取られたイメージの危うさ

土の上を走るシロクマのCMや、波打ち際のツバルの映像。

それらは確かにショッキングですが、本当にそれが「二酸化炭素による海面上昇」だけが原因なのでしょうか。

季節的な現象や、地盤沈下といった他の要因を切り捨て、一つの物語に回収してしまう危うさを感じます。

もちろん、「もったいない」という精神やエコな暮らしは大切です。

しかし、その善意が「疑いようのない世界の真理」として、一方向の論調で塗り固められていく様子には、どこか薄気味悪さを覚えてしまいます。

思考の「枠」に閉じ込められる気持ち悪さ

結局、私が感じている違和感の正体は、複数の意見が並び立つことが許されない「空気」なのだと思います。

声の大きな意見が他を抑え込み、コンセンサスが取れていると既成事実化していく過程。

それは、かつて私が特定の組織や政党の動きに対して感じた、「個人の思考が組織の論理に塗りつぶされていく不気味さ」と同根のものです。

温暖化を巡る議論も同じです。異論を唱えれば「否定論者」というレッテルを貼られ、多数派に属せば「正義」とされる。

私は、右翼でも左翼でもありません。

ただ、今のマスメディアが作り出す「ある程度統一された論調」を、あたかも唯一の真理であるかのように押し付けてくる態度が、生理的に受け付けないのです。

少数意見を排除する傲慢さも、あるいは「少数意見を大事にせよ」と叫ぶことで自身の正当性を誇示するようなパフォーマンスも、どちらも私には「個」の不在に見えてしまいます。

ましてや、それらを足して二で割ったような「中道」などという言葉は、思考を放棄した者の言い訳にしか聞こえません。

とりあえず、自分の頭で考えてみる

ニュートンはかつて、自らを「真理の大海を前に、砂浜で綺麗な貝殻を拾って喜んでいる子供」に例えました。私たちは、誰かが差し出した「二酸化炭素」という名の貝殻一つを、すごい大事なことだと思い込んではいないでしょうか。

お釈迦様は、苦しみの原因を外側のせいにせず、人間自身の捉え方にあると説きました。

そして、「自灯明・法灯明(自分を灯火とし、法を灯火とせよ)」と遺されました。
誰か偉い人の言葉を鵜呑みにせず、世の理を自分の目で見極めなさい、ということです。

人類の歴史は、考えることをやめ、「誰か教えて」と答えを外に求めた時に失敗を繰り返してきました。

天動説から抜け出せなかった人々、魔女狩りに加担した人々……。
「みんなが言っている」という実体のない幽霊に、私たちは今も怯えているのかもしれません。

間違ってもいい。大切なのは、自分で考え続ける足跡を残すことです。

間違いは気づいた時に直せばいい。けれど、思考そのものをやめてしまえば、私たちは直すべき道さえ見失ってしまいます。

このブログでは、正解を提示するのではなく、皆さんと一緒に「砂浜で首を傾げる子供」として、この巨大な問題に向き合っていきたいと思います。

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