自己の経験を顧みるとどうも暗くなってしまいます。
だから今回は、今の自分の宗教観を整理してみようと思います。
果たして宗教って何というところから

「人はなぜ祈るのか。」
ではなく、
「祈るという感覚は、人間のどこから生まれてきたのか。」
そんな原初への問いもありますが、とりあえずは自分の持つイメージから
宗教とは団体?
自分で経験したせいもあり、宗教とはまず先に団体があります。もちろん宗教の本質は団体であるはずはなく、基本は個人なのですが、一人で修行はなかなか続かないこともあり、やはり入り口は何らかの団体から始めることが多いようです。
その中で社会性やら、個人の嗜好などでその組織内の位置が決まってきます。
そして教祖が言ったことを少しでもわかりやすく伝えようとどんどん新しい解釈が追加されてゆきます。
本来最初はシンプルだったはずの教祖の言葉は、こねくり回され、手垢のついたまるで別のものに変容してゆき、その過程で色々な権益が発生し、誰かの利益が優先される構造が生まれます。
多分釈迦もキリストも、宗教を作ろうとしたわけではなく、妄想に取り憑かれて自分を不幸だと信じ込んでいる人に対して、その考えは違うよ、とだけ言いたかったのではないのでしょうか。
それぞれの生まれ育った環境や当時の社会情勢から、神に対しての概念やら違うものもありますが、共通点も多くある様に思えます。
そして現在脳科学などの研究が進み、あの頃考えられていたことと同じようなことが、新たに発見されています。
単純に釈迦やキリストを偉人と名付け敬うのもどうも違うというのは、彼らは自分自身を特別とは考えていなかったこと。
誰でも神の子になれるよ、仏になれるよと言い続けていたこと。つまり自分が特別なわけではなく、誰もがなれるということを明確に訴えてきました。
そもそも釈迦自身は自分は仏様だとは言っていないと思います。
もっと正確に言うと、スーパーマンとしての仏ではなく、世の理を理解したよ宣言としての仏。
それを後世の人がスーパーマンとしての仏に祭り上げた、そんな風に感じています。
彼を見た王様が、彼こそ仏様だといったわけで。
団体の持つ必然性
しかし彼らの思惑とは関係なく、団体が発生します。もちろん人は一人では生きて行けません。宗教をともに求道しようと人々が集まります。
そしてその中から、より強い意志を持ったもの、より結果を出しているもの、より世渡りのうまいものが団体の中で権力を得てゆきます。
だんだん団体は権力を持ったものの権益を守る動きが起こり、固定化されてゆきます。
誰でも幸せになれるよというより私を信じなければ幸せになれないよと新たな教義が追加され、権益がより固定化されます。
一人ひとりを見ればみないい人なのに、団体として集まると、恐ろしいことを起こしてしまうのはおそらく人間の本質なのでしょう。
自分の団体を守るということは、他の団体を攻撃することだと考えてしまうと、幸せになるための団体はたやすく攻撃的な団体になります。
変化したわけではなく同包しているという、つまりいい人が悪い人に変わったのではなく、いい人の中に悪い人が隠れているという人間の持つ基本的な属性なのでしょうか。
これについても釈迦は全ては変化し、変わらないものはないと述べていました。いいだけの人は存在せず、悪いままの人も存在しないというあまりにも当たり前のことをつい忘れて、あの人は悪い人と誰かを固定化して判断してしまう。
教育でしょうか、本来人間の持つ愚かさなのでしょうか。
人を恨んだり憎むことで、自分を不幸にしてしまうのは、とてもわかりやすい基本原理ですね。
おそらく団体に所属することは、思考停止する言い訳にできるからなんでしょうね。
自分と宗教との出会いから
初めての宗教は、幼稚園。クリスチャン系の幼稚園です。もちろん何も覚えていません。
高校の時に何故か友人がキリスト教に少し凝っていて、聖書などを読んでみましたが、何も心には残りませんでした。
大学に入りその同じ友人がとある大きな宗教団体に入ったためお付き合いで入りました。
全く自主性がない人生ですね。
しかしその頃は宗教に対しての考えも、はっきりとしていなかったような気がします。
つまりなぜ宗教を信じようと思ったのかについて、自分でも求めているものがはっきりしていなかったと思うのです。
なんとなく団体行動というか、人と同じ行動をすることが意味があるような気がして、会合や、人と話をすることだけを一生懸命やっていたような気がします。
本来の自己の成長とか、生活を整えるとかをないがしろにしてただ対外的なことだけを頑張っていたなあと今考えるとおもうのです。
本来、とある大きな宗教団体にしろ他の宗教団体にしろ、自己の成長は大事に考えているはずです。
どう見ても危ないだろうというような宗教団体でも、少なくとも自分自身は成長を感じているから続いているはずで、そんなこともあり(明らかに自分の問題で)宗教団体の活動からは、少しづつ離れてゆきました。
それなりに仕事も充実していたので、ますます活動から離れいつの間にか退転状態になっていました。
多分宗教であれ、なんであれ取り組む姿勢に問題があったような気がしています。
仕事は一生懸命やっていたような気がしますがこちらも今思うと、自己成長や、社会常識の育成などからは目を背け、仕事の持つある種の麻薬的な快楽を求め続けていました。
若くして店長を任され会社的な役職を自己のステータスと勘違いし、本来この時期に築きあげるべき社会常識や、人格の成長をないがしろにしていました。
けして卑下して言っているのではなく、今考えるともったいない人生を歩んできたなあという思いがあるのです。
もちろん人生はこれからまだまだ続きます。今こういう思いをしているのも今までの経験があるからです。
卑下するわけではなく、悔やむわけではなく、ただ起こった事象として捉えていきたいと思っています。
祈るという感覚は、人間のどこから生まれてきたのか

祈るという宗教行為の以前、宗教が発生する前の祈りという行為、果たして、どんな意味があったのでしょうか。
そしてそれが宗教という概念を作り出していった過程が人間を知るよすがになるかと思います。
宗教と哲学 そして病気に対するとらえ方
人はなぜ宗教や哲学を創りだしててきたのでしょうか。
幸せになるために作られたはずの宗教や哲学

そう、それは幸せになるためでしょう。
つまり考えることで苦しんできた人々は、どう考えるかということを宗教や、哲学やいろいろな理論体系の中で構築していきました。
しかしその考え方自体が新しい苦しみを産んできました。
自分はなぜ苦しいの?神様が助けてくれるよ。
でも神様は助けてくれません。
人生はなぜ苦しいの?それは生き方が間違っているからなのだよ。
でもそのとおりに生きても苦しい。
人はしあわせになりたいと思っていますが、多くの場合その幸せの概念が自分自身の欲望を満たすためだったり、
他人をないがしろにしなければ達成できないものだったり、幸せを求めるとまた新しい苦しみを招き寄せます。
医療の進歩と共通する流れ
なんだかこのイタチごっこ的なスパイラルは医学の進歩と同じような気がします。
ある病気を治そうと処置をすることで別の病気を招き寄せたり。
高血圧が脳梗塞のリスクを高めると言われれば、薬で血圧を下げ、今度は血流低下で癌のリスクが上がったり。
そう、高血圧を治したいんじゃない。本当は健康になりたいだけなんだ。
こんな心の声が巷にあふれています。
敵を作ることで発展してきた人類とは

世界史を見てみると、例えばユダヤ人は本当にいろいろな受難を受けてきました。
だからそのことをどう捉えるかというユダヤ教が生まれたのは必然とさえ思えます。
今苦しいのは自分は悪く無い、外に悪い人がいるからだという基本的な考えは、表面的な苦しみを癒やしますが、常に敵を作り続けます。
その流れを受け継ぐキリスト教が常に外に敵を作り、その敵に対抗することで発展してきたこともやはり必然といえるでしょう。
キリスト自体はそんなことを言っていないという文献も出てきていますが、上で述べたいわゆる宗教団体が、恐怖にとらわれ、敵を作り続けてきたのでしょう。
本来幸せになるために作られた宗教でさえ、敵を作るという本質的な間違いを犯したために、別の不幸を創りだす。
病気を敵と認識している限り、人は病気から逃れられないのだと思います。
敵に勝つことを求めた、医療、政治、宗教 もしかしたら今ここをもう一度考える時なのかもしれません。

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