初めての出会い、仏教とは救いのないもの?
とある教団に入会し、少しずつ仏教のことについて勉強を始めたころ、「四法印」という言葉を知りました。
諸行無常、諸法無我、一切皆苦、涅槃寂静ですね。
その中にあるショックな言葉に驚いたものです。
「一切皆苦」
人生とは一切が苦しみである。
なんとまあ、救いのない言葉です。

その教団では、小乗教(その教団では釈迦仏教を小乗教、中国や日本にわたり新しくなったのが大乗教と呼んでいました)は救いがないけど、この教えは、宿命転換できるから幸せになれるよ、などと言っていた組織です。(少し端折りすぎたかな)
ほう、ならば安心としばらく活動していたのも良き思い出です。
組織から離れて気付く本当の意味
私が教わったこと、自分で考えなさいという教えに従って、私は退転しました。
ふとした時に気づく「思い通りにならなさ」
庭の草木、天気、自分の体調、パソコンの動作……日常は「自分の思い通りにならないこと」で溢れています。
私たちは無意識に「すべては自分の思い通りになるはずだ(あるべきだ)」と思い込んでいるから、そうならなかった時にイライラし、傷ついてしまいます。
昔の人はこの世の理(ことわり)を、たった四つの漢字で表現していた。それが「一切皆苦」です。
組織から離れ、自分なりに勉強を続けると見えてくるものがあります。
大きいのは、「一切皆苦」はあきらめの言葉ではないということ。
正確に言うと、その組織でも一切皆苦をあきらめとは説明していないけど、いつもどこかに、いや、うちのほうがいいよ的に釈迦仏教を正確に説明はしていませんでした。
しかし実際は「一切皆苦」は宗教臭くもなく、世のことわりを冷静に表した言葉でした。
苦 の本当の意味
「苦(く)」という言葉の誤解を解いてみよう。
仏教用語の「苦(ドゥッカ)」は、単なる苦痛ではなく「思い通りにならない状態」「不快・不安定」を指します。
「人生は苦しい」と絶望するための言葉ではなく、「そもそも世界は自分のコントロール下にない」という 世界の仕様(デフォルト設定)を提示しているのです。
プログラミングやシステムで言えば、「バグや予期せぬ挙動が起こるのがデフォルトの環境」と知っておくようなもの。
苦をもう少し詳しく見てみると、
苦苦(くく): 痛い、熱い、悲しいといった、誰が経験しても不快な直接的苦しみ。
壊苦(えく): 楽しいことや良い状況が、変化して失われるときに感じる苦しみ。
行苦(ぎょうく): 変わりゆく世界の中で、存在自体が不安定であることによる根源的な苦しみ。
一言で「苦」と言っても本来いろんな意味があります。
「苦苦」のように肉体的、精神的な苦しみと、自分とは本来関係ない変化する苦しみ(壊苦や行苦)は分けてみるべきなのでしょう。
「一切皆苦」の本当の意味――ネガティブな諦めではない
…日常は「自分の思い通りにならないこと」で溢れている、ただこのことを冷静に表した言葉でした。
つまり、一切は自分の思い通りにならないものであり、不安定で、不快なものだと人は感じるものだと言っているだけなのです。
苦も今使う意味とはかなり感じが違っています。
「思い通りにならない状態」をすべてひとくくりに苦しみととらえず、「そもそも世界は自分のコントロール下にない」と理解できれば、一の矢は仕方ないけど、二の矢三の矢で自分で自分を苦しめることは防げるようにも思えます。
日常にあふれる「思い通りにいかない」
生老病死(歳の重なり、身体の思い通りの効かなさ)
生老病死こそ、思い通りにならないこと筆頭でしょう。
愛別離苦・怨憎会苦(人間関係や、大切な人との時間の変化)
人間関係も思い通りにならないことですね。
求不得苦(手に入れたい結果や数字がすぐには出ないこと)
ものに対する執着も人を狂わせ生成でいられなくなります。
五陰盛苦(人間を形作る肉体や精神からくる不自由さ)
生老病死をより深く、分析し、根源的なところまで視線を広げたといえばいいかな
キーボードを打つ指が滑ること、設定通りに動かないシステム、たった一文字のミスで動かないプログラム、計画通りに進まない一日。
「思い通りにしよう」と力むほど、私たちは自分で自分を締め付けてしまう。
「諦める」のではなく「明らかに観る(あきらめる)」
日本語の「諦める」の語源は、仏教用語の「明らめる(真実・構造を明らかに照らし出す)」からきています。
投げ出すことではなく、「これは自分の力ではコントロールできない領域だ」と正しく境界線を引くこと。
庭を眺めると大きな梅の木が、好き勝手に枝を伸ばしています。
もうすぐ電線に届きそうです。
それよりも庭に雑草がぼうぼうです。でもそれを不快に思うのは私だけ。草たちは一生懸命生きているだけ、私とは関係なく。
庭の樹木が人間の都合に合わせて枝を伸ばさないように、世界はただそこにある。コントロールしようとする執着を手放した瞬間、心にスーッと風が通る。
思い通りにならない世界を、愛おしく

「一切皆苦」を受け入れた先にあるのは、冷たい諦念ではなく、穏やかな自由。
思い通りにいかないからこそ、たまに意図通りに動いた瞬間や、予想外の美しい景色(ハプニング)が愛おしく思える。
今日も思い通りにならない庭やプログラムのコードを眺めながら、珈琲を一杯飲む。その静かな時間こそが、至福なのでしょう。
その先にあるもの、「涅槃寂静」も観ていこうと思います。

コメント