人が長い時間をかけて会得したもの 痛みという感覚

ケガした子供 日々是好日

痛みというのは、体の異常を知らせる信号

人に限らずすべての生命体にとって、痛みとは非常に大事な神経反応です。
もし痛みがなければ、出血ややけどに瞬時に対応できず、適切な行動(熱いやかんから手を放すなど)が取れず、より大きな損傷を与えることになります。

ケガした子供

包丁なんかに負けないぞ

私は以前飲食店に勤務をしていて、主にホールでの接客がメインだったのですが、たまには厨房での仕事もあり、また料理長などもやったこともあるので、それなりに調理もたしなみます。
その際、やはり包丁で手を切ることもあるのですが、「あ、ヤバイ」と思うと、じっと傷を見ます。
そうするとすぐに血が止まり、痛みも和らぐような気がするのです。
その時仕事などすぐに復活しなければならないときと、普段の何気ない時と血が止まる感じが違うなあといつも思っていました。

別に検証したわけではないけれど、痛い痛いと慌てるとなかなか血は止まりません。
しかし落ち着いて意識を集中すると、痛みも和らぎ、血も止まっていくように感じていました。

心頭滅却すれば火もまた涼し

いろいろな語源がありますが、有名なのは織田信長の軍勢に甲斐国(山梨県)の恵林寺を攻められ、炎に包まれた際に臨済宗の僧侶である快川紹喜が心境を述べたものとされています。
もちろん、火を放たれ周りに火が迫ってくれば熱いのは当たり前です。

ただ熱い熱いと慌てるより、今を冷静に見つめる姿勢はやはり修行のたまものか、心の在り方を見つめてきた結果なのでしょう。
この言葉が伝わっているのは、まさしく冷静に行動したからだろうし、ご本人がどうなったかな知らないのですが、少なくとも慌てて取り返しのつかない状態ではないというだけで、この言葉の意味する深さが感じられます。

生命の英知として

人に限らず、生命をもつものは死を厭います。
基本的に生存の欲求があるからです。
そのため痛みという感覚を利用することで、生命の危機から自身を救ってきました。

このことを考えてみると、一つ気付きます。
生命の危機から救うために痛みという感覚があるのなら、死ぬときに痛みはあるのだろうかと。
つまり、長い間生命をつないできたそれぞれの種は、いわゆる大往生として生命を全うするときは、痛みを感じる必要はないのではないか。

交通事故など急な死を迎える時は、痛みを感じるだろう、しかし、もう十分生きたと感じているときに、痛みの情報は必要ないように思います。

つまり、生命は死を苦しむものとして想定してはいないのではないか。必要のない情報は伝える必要がない。
そう考えると、眠るように逝去するというのも、ある意味必然かと思います。

いつから死は苦しいものになったのだろう

もちろん私も死は怖いですし、死のことは考えないようにしています。
それはきっと教育というか、誰かから教えられたことなのではないでしょうか。
例えばペットなど、人間のそばにいる動物は死を迎える時は穏やかにじっとうずくまるようになります。泣き叫んだりしません。あくまでも自分の少ない、ペットを飼った時の経験です。

何で人間だけが必要以上に死を怖がるようになっているのか、それは本能というより、もしくは苦しみからの忌避より、教育や、社会関係で教えられたものと自分は感じてしまうのです。

そしてこれはいろんな意見があるとは思いますが、こう考えるようになった背景を少し話そうかと思います。

実は現実問題として、死を迎える病床の場で苦しむ人は多くいます。そんな光景を見ると死は恐ろしいものだという思いになります。

母との会話 延命治療について考える

まだ母が生きていたころ、こんな会話をしました。

モンタル母
モンタル母

私は死にそうになったら死にたいから、絶対延命治療はしないで。

モンタル
モンタル

俺も延命治療は勧めたくないと思うけど、その時になったらどう考えるかなあ

でも自分の感情はどうあれ、延命治療は断ろうと決めていました。

なるべく決めつけるような言い方をしないように気を付けますが、時々その時の会話を思い出しいろいろ考えていました。
死を迎えるとき苦しむのは、延命治療など不自然なことをするからなのではないか。
同じ文脈で考えると、抗がん剤などの治療は不自然なことなのではないのか。

とはいえ、親の治療で抗がん剤などを断ることができるのか。

結局このことは自分なりに答えを出す機会がないままに終わりました。

痛みの意味を考える

痛みは、身体の異常を知らせる危険信号として、末梢から脳へ電気や化学物質の信号として伝えられます

つまり痛みという情報があるわけではなく、異常を知らせる危険信号として脳へ電気や化学物質が痛みの形として伝わるわけです。
このことを知ったとき、死と痛みはつながらないと感じました。

そして自分でも少し気持ちが柔らかくなりました。

死を怖がる必要はない、体の声にいつも耳を澄まし、教えてくれる体の異常を聞き逃さないようにし、後は恐怖に取りつかれないよう穏やかでいようと。

痛みという感覚、やはり人が幸せになるためにあるはずです。
死の恐怖に取りつかれ、おびえて生きることはだれのためにもなりません。いつか来る死におびえることなく今をしっかり生きることが、自分だけでなく周りも大切にする生き方だと。

母との会話に対する今の自分の答えです。

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