人生の遠回りを肯定する心の作り方:大昔の思想家たちがやっていた「自分納得」の技術

祈り シッタルダという人がいた

天台宗の智顗が整理した「五時八教」は、元来「どの経典がより優れていて最終回答なのか(勝劣)」を判別するための理論(教判)として使われてきました。
しかし、教典の「優劣(バージョンアップ)」ではなく、現代を生きる個人の「心の成長プロセス」や「視点の拡張(状況に応じたOSの切り替え)」として捉え直すと、何が見えてくるのか。

ちなみに私の立場は大乗非仏説にのっとっています。日本以外は世界の流れに近いと感じています。

教相判釈

乱れた教え

中国においては、伝えられた経典の多さや、中国で製造された(とされる)大乗経典は各々が各々の信奉する教義に従って創作されたものであったため体系的でなく、著しい教義の不整合が生じていました。 その教えの内容があまりにも多様化し、どれが釈迦の本当の教えかということが問題になりました。

教判の必要性

経典の内容が種々異なるのは、釈迦が教えを説いた時期や内容が異なるためと考え、多種多様な経典を、その説かれた順序や内容、レベルによって分類し、価値づけて体系化した仏教の解釈の学問です。

天台の教相判釈

五時とは

時(天台の伝統解釈)伝統的な捉え方代表的な宗派、寺院
華厳時(けごんじ)悟った直後、究極の真理をいきなり語ったが、高やすぎて弟子には理解できなかった。 華厳宗 奈良の東大寺
鹿苑時(ろくおんじ)もしくは阿含時(あごんじ)理解できない弟子のため、レベルを下げて基礎(四諦・八正道など)をわかりやすく教えた。阿含宗
京都の釈迦山大菩提寺
方等時(ほうどうじ)基礎に満足した弟子に「それだけじゃない」と喝を入れ、視野を広げさせた。『般若経』『法華経』『涅槃経』を除く大乗経典を依処とするほぼすべての大乗仏教  
知恩院(京都)や本願寺など
般若時(はんにゃじ)「空」の概念を説き、あらゆる執着や固定観念を削ぎ落とした。天台宗、真言宗、臨済宗、曹洞宗、黄檗宗、浄土宗など多くの宗派の依拠になっている
奈良 西大寺、京都 智積院 成田山新勝寺、川崎大師平間寺、高尾山薬王院
法華涅槃時(ほっけねはんじ) すべての教えを統合し、「誰もがそのままの姿で尊い(仏性)」と締めくくった。 |天台宗 日蓮宗 日蓮正宗
比叡山延暦寺、池上本門寺、富士大石寺

八教とは

  • 化義の四教:釈迦の教えを形式の上から分類したもの
  • 化法の四教:釈迦の教えを内容から分類したもの
  • 天台大師智顗が明かした教判を後代の天台宗が体系化したもの。
  • 大前提として、諸経の教えを釈尊が説いたものとして総合的に矛盾なく構築しようとした。
    と言うより、法華経ありきで、論理構築したといえばいいかな。
  • 俳優がいて、それぞれに役割をあてはめ、一つの物語に仕立てたといえばわかりやすい?
  • 「いきなりさとり(華厳)?まずは初歩(阿含)、いろいろ迷って(方等、般若)、最後に真理(法華)に辿り着いた」という成長物語の組み立て。

もちろんあったほかの考え

  • 天台以外の人も自分なりのストーリーを持っていました。
  • 空海など別の視点を持った人は、また別の「納得ストーリー(密教が最高)」を作っていました。
  • しかし結局天台の五時八教がこの当時のベストセラーになったという話。
  • ポイント: 「どれが本当に一番か」というバトルの話ではなく、「人は自分を納得させるために、自分の歩みを『ストーリー(成長の段階)』として整理したくなる生き物だ」という見方でどうでしょう。

五時八教はなぜ間違い・批判されるのか

  1. 歴史的事実と異なる:初期・中期・後期の大乗経典の成立年代(法華経などが紀元前後以降に成立したことなど)を調べると、お釈迦様が自ら「華厳時→阿含時→方等時→般若時→法華・涅槃時」というスケジュールで説法したわけではないことが分かっています。
  2. 経典の優劣づけである:法華経を最高位(純円教)に置き、それ以外の経典を「段階が低い」と位置づける教判であるため、他の経典や仏教の立場からは批判の対象となります。
  3. 学術的な否定:近代以降のインド仏教学においては、天台大師智顗の作った枠組み自体を「釈尊の真実の説法史」としてそのまま捉えることは否定されています。
  4. そもそも:上でも書きましたが、多くの大乗仏教は仏説ではない(大乗非仏説)のであればはなから成り立たない。
    有名なところでは般若心経などは最近の研究では中国で作られたという説があります。

要するに、あくまでもある時期、必要に応じて出てきた学問であり、今は研究資料として以上のものではないと考えています。

大乗非仏説(だいじょうひぶっせつ)と私

一応自分のスタンスを少しだけ。
わたしは以前創価学会に在籍し、今の多くの仏教の知識はその時に学んだものです。

そこで、信じることだというだけでなく、教学を学べというある意味自分の今までの宗教観とは違うことを学びました。

しかし中で学んでいく中で覚えた違和感のため、結局は離れることになったのですが、仏教自体のダイナミズムや、整合性にはやはりひかれていたため、信仰の対象としてではなく、生命哲学として再度自分のスタンスで学び始めました。

その中で、大きい気づきは大乗非仏説です。
これは中にいたら、決して見えない視点でしょう。

今仏教とは世間にどんなメッセージを与えているのか、正直宗教としての仏説は(創価学会などの既存教団の体たらくを見るまでもなく)もはや力を失っているのではないかと感じていました。

しかし、信仰の対象ではなく生命哲学として、ゴーダマシッタルダという人が述べたことは今の世の中にも色あせることなく、光輝いて見えます。

それでも今に生きる

さて前半では、教学的に五時八教を眺めてみました。
ただ、個人的なことを言えば、仏教用語の解説に終わりたくない思いもあります。
古びた考えと切り捨てることなく、今につながるものはないか?

現代的な捉え直し

時(天台の伝統解釈)現代的な捉え直し(生き方の補助)
1. 華厳時(けごんじ)「原体験・直感」のフェーズ
 人生のふとした瞬間に得る「全ては繋がっている」という圧倒的な直感や体験。言葉を超えているため、理屈では消化しきれない。 |
2. 鹿苑時(ろくおんじ) もしくは阿含時(あごんじ)「足場固め・ロジック」のフェーズ
 悩みの原因(苦)を分析し、行動(八正道)で解決する「現実的・具体的な自己メンテナンス」。信仰ではなく、行動という誰でも再現できる体験。 |
3. 方等時(ほうどうじ)「自己批判・自己開示」のフェーズ
 「自分だけの小さな正義や安らぎ」に安住せず、他者との関わりや限界に気づき、考えを柔軟にブレイクスルーする段階。 |
4. 般若時(はんにゃじ)「手放し・アンラーニング」のフェーズ
 「〜ねばならない」「私はこういう人間だ」という固定観念(フレーム)を一度すべて解体・手放し、心をまっさらにする。
5. 法華涅槃時(ほっけねはんじ)「統合・全肯定」のフェーズ
 迷った過去も、論理に頼った自分も、手放した経験もすべて「今の自分を形作る大切なプロセスだった」と丸ごと受け入れる。

日々の中での気づき

1.例えば、街を歩いているとき、いつもの街並みがふと違うように見えてくる。
それは小さいけどなにか心があったかくなるような感覚。

2.これはいったい何だろうと、家に戻りネットで調べてみるとどうやら心には瞑想がいいらしいと、実践してみる。

3.なんだかこれいいなあとまたネットで調べると、いいやそんなもんじゃないんだといきなり否定されてしまう。

4.でもそもそも、正しいとか違うとかそんなものは無いんだと気づきさらに深い思索を重ねる。

5.ついに、ああこれでいいんだ、今まで全部が私なんだと気づく。

ほう、これって五時八教だね。

過去の自分を「青かった」と切り捨てていませんか?

昔の考え方や失敗を「無駄だった」「間違っていた」と恥じる必要はないと考えます。

人は成長するにつれ考えが変わるもの。過去の自分と今の自分をどう繋ぎ合わせれば、自分自身に納得して生きていけるのか?という自分との会話に使って見ようか。

人類最強の「自分納得システム」を作った昔の思想家たち

思想家たち(天台や空海)も、「自分の今の答えが一番正しい」と自分や周囲を納得させるために壮大なストーリーを作っていました。

そこにどんな思いがあったのでしょうか。

「心の5つのフェーズ(五時)」で人生を捉え直す

昔の思想家が作った「心の成長ステップ」は、そのまま現代人のメンタルプロセスに当てはめましょう。
そこで見えてくるもの、もし今が少しでも楽になればそれこそ巡り合えた意味があるんではないでしょうか。

「今の自分」をつくるために、無駄な時期は一つもなかった

夕暮れのモンタル

「法華(最終形)」だけが偉いのではない。阿含(基礎)の時期も、悩んだ時期も、そのフェーズにいたからこそ今があります。

皆さんの歴史はどうですか、私は、冬の港で海に落ちて、たまたまいた人に助けられ、うつ病になり、脳梗塞を発症しそんなことを過ごして今があります。
どの瞬間も私にとって必要な時間でした。

他人の正解や「どれが一番か」という優劣に振り回されず、自分自身のこれまでの歩みを「必要な5つのフェーズだった」と優しく肯定してあげられたら少し幸せを感じませんか。

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