人は生きて、死んでいく。他人の感情を挟まない「私と父」の寂静

都会の喧騒から見る絶え間なく流れ込んでくる情報

父が倒れてからもしくはその前から、なかなか家を空ける気になれず、気が付いてみると東京へはずいぶん行っていないです。

今少し落ち着き、ああ東京に行こうかなあと考えていました。

しかし愕然と思い出したこと。

大学に入るため上京しそのまましばらく東京へ住んでいて、その時にはさほど気が付かなかったのです。

しかしこちらに戻ってきて、しばらく過ごすとすっかりこちらになじみます。

とはいえ東京好きでしたから、何やかやと行っておりましたが、少しづつ訪れる間隔も伸びていきます。

そして久しぶりに東京へ行って気が付かされたこと。街の喧騒、満員電車、意図を持った情報が絶え間なく流れ込んでくる不快感。

「都会」という場所は、常に人の感情や欲望を揺さぶり、過剰な反応を求めてくる。

単なる音の大きさではなく、「こちらの注意や感情を力ずくで奪おうとする意図的な情報」の氾濫こそがうるささの本質なのでしょう。

メディアと情報の恐ろしさ 田舎の静けさの中では見えていた境界線が、都市の渦中では容易に奪われる。特定の感情や消費へ誘導しようとする「小さな洗脳」が街中に満ちていることへの違和感。

少し前に行った時の感情を思い起こしました。

今、インターネット以外の情報がほとんどない世界にいて、それもインターネットは得ようとすることで初めて得られます。

しかし、東京に限らず、人の集まるところに集まる情報という名の洗脳装置は、無くなるまでは存在さえも気付かないくらい、当たり前にそこにあります。

私と父 ただそれだけが世界に存在する

親を亡くした息子としてのふるまい。

そこに正解はあるのだろうか。誰が正解を決めるのだろうか。

葬式の時、人前で話すのにも慣れていたと思っていたのに妙に感情が高ぶったり、ただ、自分の中での違和感、ずっと考えていたこと、息子としての正しいふるまいって何だろうと。

今になって思うのは、きっと正解はないんだろう。でもその社会それぞれで、ずっと続けてきたこととと違うことをすると、いやちがう、違うことをするんじゃなくて、同じことができないと、やはり、周りとの距離を感じてしまう。

それでいいんだと思う。世界は家族や親戚さえいない、父と私だけの世界のなかで、今私は私のために何をしようかと。

自分の中で、ここを大事にできたと思えたので、今の私は、少しホッとしています、正しい息子を演じれれてはいないだろうけど、自分を大事にできたよとはいえるのだから。

「親の死にはこう悲しむべきだ」という社会の期待と、自分の内面

やはり父との関係は、二人だけの世界で、世間が求める「悲劇」や「喪失感」のストーリーに、自分の心がフィットしない違和感を感じています。

「自分は冷たいのだろうか」「執着がないのだろうか」という自問。いい息子を演じれなかったこと、それらすべてが、親を亡くした息子の役割を紡ぐことをまるで、ロールプレイングゲームをやめた子供のように、外から眺めています。

一人一人が持っている家族の中の役割

押し付けられる感情: メディアや社会は、人生のドラマ(特に肉親の死など)に対して「正解の感情(深い悲しみ、喪失感、涙)」のテンプレを用意し、無意識にそれを強要してくる。

自問と違和感: 「自分は冷たいのか」「執着が薄いのか」と問いかけた過去。世間の求める「悲劇の物語」に自分を当てはめようとしたときに生じる強烈な不協和音。

それらが社会を形作るテンプレートとして、静かに漂います。

こんなことを考えた、やはり父の死は大きく感情を揺さぶりました。ただ親を亡くした悲しみというより、世間の「あるべき姿」を思い起こしたという意味で、大きなことでした。

他人の感情を排した「自分と父だけ」の世界

社会性や他人の目、世間の「あるべき姿」をすべて削ぎ落としてみようか。

そこに残ったのは、「人はただ生まれ、生きて、やがて死んでいく」という、飾り気のない事実と静かな諦念。

他人の感情が入らない純粋な領域においては、悲しみや寂しさすら過剰なノイズであり、ただ「その事実を受け入れる」という穏やかな静けさ(寂静)だけが存在していた。

他人の感情をシャットアウトする: 社会性や他人の目、世間の「あるべき姿」をすべて削ぎ落とし、純粋に「私と父」だけの関係性に立ち返る。

感情を超えた真理(諦念): そこに見えたのは、ドラマチックな悲哀ではなく「人は生まれ、生きて、やがて死んでいく」という飾り気のない事実。

そこのあるのは生老病死という苦しみではなく、生老病死という飾り気のない事実でした。

涅槃寂静への到達: 自然の摂理を受け入れたとき、過剰な感情は乗らない。世間のノイズを拒絶した先にしか存在しない、深く穏やかな「寂静(静けさ)」の境地。

お釈迦様の死(入滅)を表す涅槃という言葉、本当の意味は、煩悩を吹き飛ばした心が澄み切った安らぎの状態です。

自分の領域を守り、静かに生きる

外部の賑やかさや、世間が押し付ける感情の枠組みに惑わされる必要はない。

自分の手元にある時間、誰にも邪魔されない思考、静かな日常。

一人でいることの孤高さと、この静けさを愛おしく思いながら生きていくこと。

私にとって正解は必要ありません。

静かに好きなことに没頭すること、すぐにエラーを吐くプログラミングや、思い通りに動けない筋トレ、挿し木をしても根付いてくれないケヤキだったり、ただの事実の集まりです。

それを「涅槃寂静」と名付けることにもはや意味もありません。 

死んで寂静になるわけではなく、今寂静だということ。

ただ生きているということ。そこには物語はありません。

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